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日々の記録

『二十歳の原点』

 「二十歳の原点 / 高野悦子」

高校1年生の夏休み前に読んでほしいと言われた本を、今日までに何度も読み返している。偶然にも同じ誕生日の作者に自分を重ね、現代を重ね、現実なのか過去なのか彷徨うくらい没頭することもある。少しずつ、確かに死に向かっていく文章も最後はスッと心が軽くなる感覚すらある。

この本を初めて読んだ16歳の時の日記に、私は「27歳くらいで死にたい」と書いていた。まだ27歳になっていないけど、今でも27歳で死んでもいいと思っている。孤独にならなければ人は死ねないのかもしれない。その目を通して見えているものなんて、全体の僅か一部ということに気づけずにいる。自分の感覚や経験でしか、想像できなくて話せないからこそ、学び続けなければならない。この本は、私みたいに感情移入してしまう人は読まない方がいいかもしれないと思ったりした。だんだん、本当に少しずつスッと消えたくなった。

ランボーはいった。「私の中に一人の他人がいる」と。私としては私の中に他人がいるというよりも私というものが統一体でなく、いろいろ分裂した私が無数に存在しているように思う。これが私だと思っている私は私でないかもしれない。人間はとかく都合のいいように 合理化して解釈する。とにかく真の自分だなんて相手はこうだなんて思いこんでいるものは、合理化によって作られた虚像に過ぎぬのかもしれない。

 何故私は自殺をしないのだろうか。権力と闘ったところで、しょせん空しい抵抗にすぎないのではないか。何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛?愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ねぬのかもしれぬ。

人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は『みんなと生きる』ということが良くわからない。みんなが何を考えているのかを考えながら人と接しよう」

人はいつでも、誰でも、独りで生きていくものだと思うのに、みんなが何を考えているのかを考えながら人と接しようとは思えなくて、また孤独に自分の意思で入っていく感じ。私は、自殺はできないけれど、消えられるスイッチがあれば、1日迷って、翌朝には押している気がする。