kiroku

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日々の記録


親子なんて、たかが血の繋がりの関係でしかないのに。

子育てなんて、賃金が発生するわけでもないのに。

先週末、朝起きると冷えピタが貼られてた。母が「触ったら熱があったから」と言って、カフェオレと果物をテーブルに置いた。こんなこと愛情がないとできない、でしょう?洗って、皮を剥いて、食べやすく切って、皿に乗せて、フォークも一緒に持ってきてくれた。私は自分のために用意するのもめんどくさいと思うのに……と思いながら当たり前のように食べる。「お母さんって、自分のことじゃないのに、私に時間を割いて何も思わないの」と聞いたら、「お母さんがやりたくてやってるから」と言われた。やっぱり、母は私と反対の人だ。

私は生まれてから今日までに、母の人生の時間のどれくらいを割いてきたのだろうか。親の意志で子どもが産まれてくるとしても、もし私が子どもを産んだとしても、私は母がしてくれたみたいに子ども時間を割くことはできないだろうな。仕事から帰ってきて、果物の皮を剥ける?起きるタイミングに合わせて食事を作れる?「あれとって」にイライラせず取ってあげられるか?絶対に確実に無理。

自分で選んだ未来に立ちながら「あ、なんか違う」「ちょっと想像と違ってたかも」と思っても、子どもはキャンセルできないから。悩んでいる人にとっては厄介な問題なんだろうな。もしリセットボタンがあれば、時を戻せるとしたら、こんな私も子どもを産んでみるかもしれない。

そういえば、先日、精子提供を個人間で行うという番組を見た。知らない人の精子を受け取って、その場で体内に入れるらしい。……。想像するだけで拒否反応が出る。それだけ切実なのだろうとも思う。何より引っかかったのは、精子提供した男性が自分の精子によって産まれた子を「娘」と呼んでいたこと。これは本当に心の底から気持ち悪かった。「娘」か……。遺伝子的には紛れもなく「娘」だろうけど、「娘」ではないだろの気持ちが私の中で抗い続けている。

高齢出産の話題でも似た気持ちになったことがあった。「何歳でも出産したい人は産めばいい。他人に関係ない。」という意見と「高齢出産で産まれたこどもが成人した頃、介護に時間を割く未来を想像したことがありますか。」という意見。母が20代の時に産まれた私は、子どもの頃に親の介護を想像したこともないし、親の都合で自分の未来を選んだこともない。けれど高齢出産で産まれた方の中には、親の介護を頭の片隅に置いて未来を選ばなければならなかった方もいるのだと。家族が原因で未来を諦めた人の前で、そっち側の人が「他人には関係ない」と言う場面に心が抉れる。

世の中には何も考えずに避妊せず妊娠してしまう人もいて、望まない妊娠もあって。虐待で死んでいく子どももいて、家族が原因で人生が崩れていく人もいて。運命や宿命という言葉で片付けるには重すぎる。この世に生み落とすことの責任の重さ。

こういう話題で私がよく思い出す「子どもは(自然に)育っていく」「少子化なんだから産めるなら産んだ方がいい」という言葉と価値観。社会のために、国のために産むことは出来ない私からしたら、子どもが自然に育っていくことなんてあり得ない。

もし、いつか「結婚したい」「子どもが欲しい」と思った時に、このkirokuを読み返して自分に問いたい。産み育てることの責任について自問自答しているうちに死んでしまいそうだけど。

もう一つ、子ども関連のことを。

前回の参院選挙の際に、友人の「政治なんて興味ないしどうでもいい」というツイートを見てしまったことから始まったモヤモヤ。「政治に興味がない」と言う価値観、Twitterで言ってしまう感覚。それが引き金になった。子どもがいても子どものために社会について考えないんだ。未来を良くしたいと思わないのかな。けれど何か言うわけでもなく、そっとアプリを閉じた。

いろいろな人がいる。そうやって区切りをつけて生きていかなければならない。

大人ってそういうものでしょう。

「一人一人に真剣に向き合っていたら疲れるよ」社会人一年目、先輩から言われた言葉が言葉の方から顔を出す。あぁこうやって向き合うことを忘れていくのかもしれない。大人になっていくのかもしれない。信条は違えど、その時の最善の一生懸命さで向き合って生きるというのは難しい。尊重するフリ、真剣なフリ、寄り添っているフリ、私も本当はそっち側かもしれない。涙が溢れる。大人の権力は思っていたより弱くて脆くて、幻想は崩れるばかり。できる限り幻想の側で生きていようとしても何も変えられない。変える力も無い。変えられる何かを得るための余裕もない。

 

話が逸れまくっているので終わり