kiroku

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日々の記録

やめるという選択

タイトル通り、日本語教師の仕事を離れてみることにした。

私は 外国に住んでいる私が好きだったのかもしれない。外国人として許される何かに甘えていたのかもしれない。誰かが望む私でいるために海外で働くことを望んでいたのかもしれない。

大人が「若いうちにしか出来ないことがある」と言う。「そんなこと無い。やる気があれば何だってできるはず。」心のどこかで思っていた時期が懐かしい。若かった、青すぎた。20代後半になって、日本にいるようになって、いろいろと考えるようになった。

まずは、大切な人の残された時間。それから、求人の応募条件にある年齢制限、年金や保険のこと、将来のこと。20代では無限にも思えた挑戦も、30を超えると挑戦すら許可されないことも増えていく。だからこそ積み重ねて 社会的信頼を築いておかなければいけない。何を積み重ねてきたの?その程度?って言われている気がする。他人から勝手に判断される場面が増えていく。勝手に評価されていく。生きるのが怖くて嫌になる。

何日か前に書いた「SNSのおすすめに現れた同級生」は警察官になっていた。結婚もして、子どももいた。画面を眺めながら、同じ時間を生きてきた私には何も無いな…と思った。心の何処かには、私だって積み重ねてきたものがあって、人生のプランもあって…の気持ちがあるのに、それは「何もない私」に勝てなかった。

日本で生きる私は社会的な何かが決定的に足りない。海外にいると日本のように、○歳で〜する、みたいな計画通りの人生を生きていなくても普通でいられるのに。日本では年収や雇用形態、結婚や性別、そういうことで評価される。誰かの価値観で勝手に弾かれる。その弾きに耐えられれば良いのだけど、「あの人は非正規だよ」「離婚したんだって」「女の子なんだから」こんな言葉が聞こえてくると辛い。私に向けられた言葉じゃないのに、なんで私が傷つくんだよと思う。私は傷つきたくなくて海外にいたかったんだろうな。もちろん海外にも社会的な暗黙の了解はあるんだけど日本のそれは私には疲れる。

帰国して生活して気づいた。「結婚」「正社員」みたいな、普通に生きていれば貯まっていく「ちゃんとした人ポイント」。それが貯まって、初めて普通に生きられるのが日本かなと思う。年齢どおりに、慣例のように、計画通りに生きることが評価される社会では、私みたいな生き方は微妙だ。

日本語教師の仕事が好きだった。授業が好きだった。目標に向かって生きる人と伴走できることが幸せだった。でも、もうやめる。私が好きなのは日本語教育じゃなかったのかもしれない。海外で生きる私だったのかもしれない。大学で日本語教育に出会って、今日まで日本語教育に携わってきた。何も間違ってはいないのに、無いものばかりに目がいって、虚しくて涙が出る。私は何を積み重ねてきたんだろう。

日本語教育に未練はない。やり残したこともない。次の仕事は挑戦してみたかったこと。次の仕事も支援を必要としている人と伴走する仕事。私はたくさん間違えて、失敗して生きてきたけど、人生の選択は何も間違えていなかったと思う。たぶん、日本語教育も大好きだったし、またいつか戻るかもしれないけれど、少し離れてみることにした。